スコット・サムナー翻訳

名目GDP目標、マーケットマネタリズム

スコット・サムナー「マネタリズムを語るニック・ロウ」

  • 2009年3月10日投稿。

 

私と共通するアイデアを持っている(そして私よりもずっと長くブログをしている)非常に良いブロガーを見つけた。そのブロガーはニック・ロウといって、マネタリズムに関する2つの興味深い記事を書いている(これこれ日本語訳])。(彼は私のブログにもリンクしていたようだが、忙しかったせいでたった今そのことに気が付いた)。ニック・ロウはデイビッド・レイドラーの教え子だったそうなので、彼のアイデアについて話す前に、レイドラーについていくつか言っておきたいことがある。

レイドラーは、マクロ経済学者が自分たちの分野の歴史から多くのことを学ぶべきだと考えている。貨幣理論の歴史に関する彼の素晴らしい著作を何冊か読んできたが、ここではこれこれにリンクしておこう。デイビッド・レイドラーのような学者は、現代マクロ経済学では周縁部に追いやられていて、経済思想史などは非主流派の地位に甘んじている。しかし私が思うに、マクロ経済学はここ数十年で高度に技術的かつ抽象的なスタイルを採用していく中で、大きな間違いを犯したようだ。

今回の危機がなんらかの意味を持つならば、同時にさまざまな側面から物事を考えられる人物が重要になる。私は「流動性の罠ってのは要するにXXだ」とか、「金融政策は単にこれだけだね」なんて言ってくる有能ぶった若手の理論家には良い印象を持っていない。私の他の記事を読んでもらえば分かるように、全ての物事を「要するに〜だ」なんて風に説明することはできない。流動性の罠を理解したいなら、大恐慌期の歴史や1994~2008年の日本の歴史を学ぶ必要がある。(別の記事では、どちらの「罠」も罠のように見えるだけだと論じた)。連邦準備制度がどのように機能するのか、準備預金への金利の支払いがどんな意味を持つのか、その金利はマイナスにできるかどうかを正確に理解する必要がある。政策の信頼性の問題や、どのようなシグナルを送れば市場の信頼を得られるのかを理解する必要がある。リスク資産の購入を含む、非伝統な公開市場操作の長所と短所を理解する必要がある。貨幣注入が多くの異なる経路を通じて、総需要に影響することを理解する必要がある。通貨切り下げが、国際政治の摩擦を引き起こすことを理解する必要がある。言葉選びによって、微妙に思考が変化してしまうことも理解すべきだ(例えば、必ずしも罠とは言えないものに「期待の罠」という言葉を使う、とか)。全ての物事を「要するに〜」なんて説明することはできない。それらの問題は数学的に複雑なのではなく、概念的に複雑なのだ。

現在の世界経済に必要なのは、深い知識とデイビッド・レイドラーのような見識を持つ人物であって、DSGEモデルに精通しているのに、危機に対してなんら実用的なアドバイスはできない連中ではない。

私がレイドラーと会ったのは一度だけで、その時はITバブルについて話したのを覚えている。彼は今回の出来事がインフレ目標の欠点を明らかにしており、中央銀行は資産価格にもっと注意を払うべきだと言っていた。(当然ながら)私はFRBが名目GDPを目標にすれば、彼の心配している問題が少なくとも部分的には解決されるだろう、と答えた。過去5年の出来事の後では、私が提案する名目GDP目標はより魅力的に見えると思うが、それ以上にレイドラー氏の見解の重要性が浮き彫りになったことを認めざるを得ない。

ニック・ロウは貨幣を完全に排除したウッドフォードの「ネオ・ヴィクセリアン」モデルのような、現在の貨幣理論のトレンドを私よりも分かりやすく説明している。ところで、価値尺度なくして物価水準は存在しないので、私はウッドフォードのモデルには貨幣が必要だといつも思っている。私が思うに、ウッドフォードは交換手段としての貨幣(M1など)は必要ないと考えているのだろう。ぼんやりとしか覚えていないが、全てのモデルは貨幣性資産と銀行間の決済残高を含むべきだとベネット・マッカラムが主張していた気がする。(私の記憶違いだったら訂正してほしい)。

ニック・ロウマネタリストが提示したアイデアを、もう一度見直すべきだと考えている。

そんなわけで、私たちは以前の古い考え方に立ち戻る必要がある。金融政策とは貨幣ストックを変化させる政策のことである。不況における金融政策の目的は、貨幣の超過供給を作り出すことである。定義上、貨幣は交換手段としての機能を持っているので、人々は何かとの交換で中央銀行から貨幣を受け取る。しかし、人々はその貨幣を全て手元に置きたがるわけではない。と言うよりも、そもそも中央銀行の目的は、多くのものを買う代わりに、手元に置いておきたくないほど多くの貨幣を人々に受け取らせることなのだ。貨幣供給の超過分はホットポテトのように、人から人へと渡っていく。貨幣が使われても、消えて無くなるわけではない。貨幣は他の市場に流れ出し、それらの市場で財と資産への超過需要を生み出し、価格と数量を上昇させる。そして、人々が手元に回ってきた貨幣を保有し続けたいと思うようになるまで、価格と数量は上昇し続ける。

これが古典的なマネタリズムである。私はこれをデイビッド・レイドラーから学んだ。スコット・サムナーを読んだ時も、同じものを目にした。

この文章を読んで私が最初に思ったのは、「待てよ、私はマネタリストじゃないぞ」ということだ。古典的なマネタリズムは、貨幣集計量と政策ラグという2つの領域で問題を抱えている。その2つの問題に関する弱点のせいで、広範な数量理論のアプローチに対する信頼性が傷つけられていると私は思っている。具体的にどこが間違いかと言うと、貨幣需要は安定的であり、金融政策の指標(または手段)として使用できると仮定したことだ。2つ目の間違いは、政策ラグが存在することから、インフレ目標や名目GDP目標は利益よりも害が大きいと判断したことだ。これについては別の記事で論じたいと思うが、マネタリストは金融政策が直ちに金融市場に影響するという事実に十分な注意を払わなかったせいで、多くの貨幣的ショックを誤認し、政策ラグの長さを過大評価していた。

しかしながら、ミルトン・フリードマン貨幣経済学の著作を読むと、彼は他の経済学者が見落としてきた重要なことを指摘しているように思える。だからこそ、マネタリズムの中心的な概念は私の思考に深く刻まれている。ニック・ロウはそのことを感じ取ったのだろう。

ウッドフォードによるネオ・ヴィクセリアンのアプローチにしても、金融政策を金利によって判断するケインジアンの見解にしても、それらが現実世界の現象を明確に説明できているとは思えないところが問題だ。1960年代~80年代の大インフレ期に、ある国のインフレ率は平均5%、ある国では10%、ある国では20%、ある国では40%、またある国では80%だった。ウッドフォードのモデルが技術的に正確であることに異論は無いし、自然利子率(それ自体は観察されない)と比較したときの政策金利の時間経路を用いて、長期的なインフレ率の違いを説明する方法もあるだろうが、そのプロセスを目に見える形にするのは難しい。各国のマネーサプライ成長率の違いを考えるのは、ずっと簡単だ(貨幣流通速度が変化することは常に意識している)。

そう考えているのは私だけではない。金融政策を金利で判断するアプローチを提唱したのは2人の著名な経済学者、ヴィクセルとケインズである。(ケインズの主な貢献は、ゼロ金利制約における金融政策の無効性を明らかにした事だとされている)。この両者が1920年代の初めには、粗野な貨幣数量説に立ち戻っていたことは印象的である。これはなぜだろうか?その理由は、1920年代の初めには世界中で、物価水準のかつてない激しい変動が起きていたからだ。ドイツを含むヨーロッパの数カ国では、マネーサプライの急成長とハイパーインフレが発生していた。安定した為替レートを持っていた米国などの数カ国では、マネタリーベースが異常なほど減少し(おそらく米国史上で最大の減少)、極めて急速なデフレーションが進行した。私の貨幣思想史の研究における普遍的なテーマは、貨幣の理論が発展していく過程には、ほぼ間違いなく当時の問題が反映されているということである。歴史を理解しなければ、貨幣経済学を真に理解することはできないし、理論的なレベルで理解することさえ難しいのはこれが理由だ。私自身やニック・ロウは、デイビッド・レイドラーからそのことを学んだのである。

私のブログの読者には、ニック・ロウのブログを読むことを強く勧めたい。

 

追記]私が言及したケインズの著作は「貨幣改革論」(1923年)である。ヴィクセルの著作は今、確認しているところだ。

[更新情報]ヴィクセルの著作は英訳されていないようだ。しかしラルス・ジョナンは、1988年に出版された欧州経済レビュー32巻、2~3ページでそれについて論じている。それから、以前私が書いたコメントは、アンチ数学を意図したものではないことも言っておく必要がありそうだ。抽象的なモデルは有益になりうるし、最高のマクロ経済学者たちの多くは、素晴らしい専門的スキルと、マクロ経済問題への繊細で直感的な理解の両方を有していた。私が言いたいのは、レイドラーのような人々が一流雑誌に論文を掲載したり、名門大学に雇用されることがますます困難になっているということだ(私の知る限りでは、だが)。