スコット・サムナー翻訳

名目GDP目標、マーケットマネタリズム

ニック・ロウ「マネタリズムvsケインズ主義論争への回帰?」

  • 2009年3月4日投稿。

 

今起こっているのはマネタリズムへの回帰ではない。より正確には、マネタリズムのみへの回帰ではない。おそらくこれは1960年代に非伝統的な金融政策について行われた、マネタリズムvsケインズ主義の論争への回帰なのだ。

過度の単純化の危険(あるいは必然性)を覚悟の上で、1960年代の議論を要約すると以下のようになる。

マネタリストは、政府と中央銀行が何を買うかは(それほど)重要では無く、何で買うのか、その元手が貨幣発行なのかどうかが重要だと主張した。貨幣発行を元手にした減税や、貨幣発行を元手にした政府支出の拡大、そして公開市場操作で貨幣と引き換えに債券を購入することは、本質的にはどれも同じことである。単に貨幣ストックを増やす方法が違うだけで、(理論上は)ヘリコプターから貨幣をばらまいても同じことである。

ケインジアンは、政府と中央銀行が何を買うかが重要で、その元手が貨幣発行か国債発行かはそれほど重要ではないと考えた。

非伝統的な金融政策をめぐる今日の論争も、同じように区別することができる。

マネタリストなら、金利がゼロになり、利下げによってマネーサプライを増やせないなら、他の方法でマネーサプライを増やせば良いと主張するだろう。短期債を買う、長期債を買う、コマーシャルペーパーを買う、株式を買う、実物資産を買う、財やサービスを買う、減税を買う、とりあえず何かを買う。あるいは単に貨幣をばらまいても良い。とにかくマネーサプライを増やし続けることが重要だ。そして貨幣ストックの増加は永続的でなくてはいけない。(貨幣発行を元手にした)赤字支出は、貨幣ストックを増やすための多くの手段の1つに過ぎない。

ケインジアンは何を買うかが重要だと言うだろう。短期国債は貨幣の完全代替物だから、それを買うことには全く意味がない。長期債やコマーシャルペーパー、株式を買えば、それらの資産の供給が減って資産価格が上昇するから、意味があるかもしれない。赤字支出はその元手が貨幣発行であれ国債発行であれ、役立つだろう。

これはウィレム・バウターによる量的緩和と質的緩和の区別によく似ている。量的緩和中央銀行のバランスシートが拡大されることを意味し、負債の部にあるのが貨幣だけであれば、それは同時にマネーサプライの増加を意味する。質的緩和はバランスシート上の資産の組み合わせを変えることを意味し、それは中央銀行が何を買うかに依存している。マネタリスト量的緩和に注目し、ケインジアンは質的緩和に注目する。

ところで、伝達メカニズムについての古典的な議論を覚えているだろうか?戯画化の危険(あるいは必然性)を覚悟でもう一度まとめよう。

ケインジアンは、貨幣からインフレへの伝達メカニズムは短期金利を通じて行われ、それが他の利子率に影響を与えることで、財の需要に影響すると考えた。よって短期金利が既にゼロであるなら、貨幣からの伝達メカニズムの最初の部分が断ち切られたことになる。

一方でマネタリストは、貨幣から需要にいたる波及経路は複数あると考えた。貨幣の超過供給は短期債市場だけでなく、長期債市場やCP市場、株式市場、そして財市場にも流れ込むだろう。仮に1つの経路が失われても、貨幣と経済のつながりが断ち切られたことにはならない。

また、摩擦のないワルラス的な市場モデルでは「流動性」という概念が存在しないため、この議論は意味を持たない。

あなたが今回の危機は少なくとも部分的には流動性の危機であり、人々が流動性を渇望していると思うのであれば、マネタリストの見解はもっともらしく聞こえるだろう。流動性とは、あるモノを他のモノに交換するときの容易さを意味する。貨幣経済では、あらゆるモノが交換手段としての貨幣を通じて他のモノと交換される。貨幣は定義上、交換手段であるから、あらゆるモノの中で最も流動性が高い。つまりマネーサプライを増やすことによって、流動性の供給を増やすべきだ、ということになる。

しかし、貨幣と引き換えに株式やコマーシャルペーパーを買うことは、マネタリズムケインズ主義の両方の立場から支持できることであり、私たちが(あるいは少なくとも私が)どちらの立場が正しいか分からない状況では、最も賢明な選択だと言えるかもしれない。