スコット・サムナー「サムナーの大恐慌論③大恐慌と金」

  • 2010年2月11日投稿。
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第4章 2節:大恐慌が発生した時の金市場の動向


株式市場の崩壊こそが、1929年10月以降に総需要を急落させた原因だという見方が主流を占めていることに、何ら不思議はない。他に疑わしい出来事はなかったのだから。たとえば、株価暴落後の1年間で、米国の貨幣集計量の伸び率に劇的な低下は見られなかった。しかし、前章で見たように、国際金本位制下では、国内の貨幣集計量は金融政策の指標として信用できないかもしれない。理論的に言って、金融政策の指標としてより適切なのは世界の金準備率である。

金市場の動向を探ることが、1929年9月以降の総需要の崩壊を理解することに繋がるかどうか判断するためには、表3.4(記事の最後にある)を詳細に調べる必要がある。金準備率のデータの中には、目を引く数値が2つある。1つ目は、1926年12月*1から1932年12月にかけてのフランスの金準備率の上昇で、それだけで全世界の物価水準を17.3%(!)も低下させる効果があった。もう1つは、株価が暴落した1929年10月以降の12ヶ月間で、世界の金準備率が9.6%上昇していることである。金準備率が政策指標として使えるならば、主要国の中央銀行の政策と金準備率の変化の間に、何らかのつながりを発見できるだろう。

このデータは、フランスの政策*2にデフレ的影響があったことを示したジョンソン&アイケングリーンの研究に、一定の支持を与えている。アイケングリーン(1986)は、フランス銀行の行動が制約されていたことを示す重要な事例として、外国通貨の購入を禁じたフランス通貨法を挙げている。この法律は、通貨量を増加させる際に、新たに発行される通貨を100%の金準備で裏付けることを定めていた。新たに発行された通貨のほとんどが高額紙幣であり、その原因はフランスの農民が通貨を退蔵したことであるということは、当時の記録にも残っている*3。しかし、1931年9月の英ポンド切り下げを取り巻く状況の不透明感から、フランスが外貨準備を金へと急速に置き換えるようになるまで、フランスの金準備率の上昇はとても緩やかなものであった。つまり、フランスの政策は、1926年から1932年の間に発生した世界的なデフレに寄与した可能性が高いものの、1920年代後半に安定していた米国の物価水準が、1929年10月に突然急落を始めた理由は別に存在するということである。

表4.1は各期間の変化率を年率換算し、政策の変化による影響を分かりやすくしている。世界の金準備率に目を向けると、1926年から1929年の期間では、(世界の金準備率を年率2.5%程度で上昇させるような)穏やかな引き締め政策が実施されていたが、1929年10月以降では、厳しい引き締め政策が行われるようになったことが分かる。

この政策転換は、フリードマンとシュワルツが示した米国の貨幣集計量のデータとの対比において、特に興味深い。彼らは、1929年の秋に、どのような大きな政策転換があったかは特定できなかったが、1930年後半に始まった銀行危機以降において、米国の政策が非常に引き締め的であったことを示す、有力な証拠を発見した。金市場の動向によって恐慌の発生、ひいては株式市場の崩壊をうまく説明できるとすれば、1929~1930年の期間では、世界の金準備率の急上昇が観察できるはずである。大恐慌の謎を金によって解明しようとする場合には、この政策転換がなぜ1929年後半に起こったかを説明する必要がある。

表4.1.世界の金準備率、実質貨幣需要、実質金需要、貨幣用金ストックの各変化が、世界の物価水準に与えた影響(1926~1932年)

1926年12月〜1928年6月 1928年6月〜1929年10月 1929年10月〜1930年10月 1930年10月〜1931年8月 1931年8月〜1932年12月 全期間(1926年12月〜1932年12月)
D(ln 1/r) -2.65 -2.38 -9.62 +1.86 -4.35 -3.64
D(ln 1/md) -2.70 -2.21 -4.97 -19.42 -10.17 -6.80
D(ln 1/g) -5.35 -4.59 -14.59 -17.56 -14.52 -10.44
D(ln G) +3.88 +4.06 +5.25 +4.72 +3.88 +4.27
D(ln P) -1.47 -0.53 -9.34 -12.84 -10.64 -6.18

D(ln 1/r)=金準備率の(逆数の)対数変化率

D(ln 1/md)=実質貨幣需要の(逆数の)対数変化率

D(ln g)=実質貨幣用金需要の(逆数の)対数変化率

D(ln G)=貨幣用金ストックの対数変化率

D(ln P)=世界の物価水準の対数変化率

(対数の一次階差を年率換算し、その変化をパーセント表示した)

注:米国以外では、マネタリーベースの代用として通貨ストックのデータを使用した。rの変化率とmdの変化率の合計は、gの変化率に等しい。Pの変化率を決定するのは、Gの変化率とg(の逆数)の変化率である。各変化率は季節調整されていない。

1926~1932年の全期間を通じて、フランスの政策が重要であったことは疑いようもないが、より短い期間では、米国の政策とイギリスの政策も重要になっくる*4。表3.4から分かるように、1926年12月から1928年6月の期間においては、米国の緩和的な金融政策によって、フランスの引き締め政策の効果が相殺されていた。ちなみに、ここで言う「緩和」や「引き締め」という言葉は金準備率のことを指しており、(内生的な)マネーサプライを意味するものではない。現に米国の通貨ストックは、その期間でわずかに減少している。この緩和政策は、ニューヨーク連銀総裁のベンジャミン・ストロングによって推進されたが、彼は友人であり、当時のイングランド銀行総裁でもあったモンタギュー・ノーマンを支援していた。通貨を大幅に切り下げたフランスとは対照的に、イギリスは英ポンドを過大評価していた大戦前の平価で金本位制に復帰したため、苦難の道を歩んでいた*5。1927年にストロング総裁が金融緩和を決定したことで、イギリスは引き締め政策を行うことなく金を流入させることが可能になったのである。

当時、ストロング総裁の政策は、非常に「インフレ促進的」であるとして批判された。その期間では、米国の通貨ストックと物価水準がいずれも低下していたから、この批判は不可解に思われるかもしれない。しかし、金準備率の低下を見れば、それが本質的には緩和政策であったことが分かる。1928年中頃までに、米国は約500億ドル相当の金を輸出する一方で、株式市場では過剰な投機が行われているという認識が高まりつつあった。1928年中頃になると、ウォール街の「根拠なき熱狂」を抑制するため、FRBは一転して金融を引き締めた。

米国の政策転換の影響は、イギリスの金融政策が緩和に向かって行ったことで部分的に相殺された。ストロング総裁の死後、主要国の中央銀行の中で、物価安定の維持には国際協調が必要であることを理解していたのは、イングランド銀行だけであった。しかしながら、イングランド銀行の政策手段は厳しく制約されていた。1928年7月から1929年10月の間で、彼らが保有する貨幣用金は4分の1近くまで減少した。1929年夏には、イギリスが保有する貨幣用金は、カンリフ委員会の報告書が望ましいとした水準である1億5千万ポンドを下回ったため、イングランド銀行は9月26日に金準備率の引き上げを余儀なくされた。10月末には英ポンドが金輸入点まで増価し、イギリスの金準備率は急激に上昇した。

今になって考えれば、歴史を決定付けたのは1929年10月から1930年10月の期間であった。米国の金融政策はそれ以前の16ヶ月と比べ、一段と引き締められた。FRBの当局者は1930年になっても、以前のブームが生んだ過剰債務を清算する必要があると強調し続けた。金融緩和の提案は、今回の問題を引き起こした過ちを繰り返すだけであるとして却下された*6。同時期に、フランスは金準備を増やし続けた。米国、フランス、イギリスが同時に金融を引き締めれば、世界的なデフレは不可避である。世界の金準備率は、1926年12月から1929年10月にかけて年率2.53%で上昇し、その後12ヶ月間で9.62%も急上昇した。貨幣用金ストックの伸び率は若干高くなっていたが、物価水準は急降下した。

1929年10月以降に世界の金準備率が突然急上昇したという事実は、大恐慌の初年度は金融政策によって説明できないとするケインズ主義者の見方に疑問を投げかけている。金本位制が持つ収縮的な役割に注目したテミンやアイケングリーンのような研究者でさえ、1929年に物価と産出が大幅に減った原因となりうる金融政策の大転換を見つけられなかった。次の段階では、具体的にどのような政策が中央銀行の金準備率を上昇させたのか、それらの政策転換に対して市場がどう反応したのかを見ていく。その際、金融政策に対する投資家の認識については、「彼らは何を知っていたか、それをいつ知ったのか」という観点から考えていかねばなるまい。

表3.4.金準備率、実質貨幣需要、実質金需要、貨幣用金ストックの各変化が、世界の物価水準に与えた影響(1926~1932年)

1926年12月〜1928年6月 1928年6月〜1929年10月 1929年10月〜1930年10月 1930年10月〜1931年8月 1931年8月〜1932年12月 全期間(1926年12月〜1932年12月)
米国
r +1.24 -2.59 -4.69 +1.55 +9.46 +5.15
m +1.55 -0.58 -0.46 -9.85 -9.66 -19.01
g +2.79 -3.17 -5.15 -8.30 -0.20 -13.86
英国
r -1.07 +1.52 -1.38 +1.05 -1.37※ -1.19
m -0.13 +0.30 -0.55 -0.59 +1.19 +0.29
g -1.20 +1.82 -1.93 +0.46  -0.18 -0.90
仏国
r -3.23 -2.73 -2.49 -1.80 -6.53 -17.27
m -1.47 -1.68 -3.08 -3.02 -5.17 -13.99
g -4.70 -4.41 -5.57 -4.82 -11.70 -31.26
その他
r -0.92 +0.62 -1.06 +0.75 -7.36 -8.55
m -4.01 -0.98 -0.89 -2.73 +0.08 -8.09
g -4.93 -0.36 -1.95 -1.98 -7.28 -16.64
世界
r -3.98 -3.18 -9.62 +1.55 -5.80 -21.86
m -4.05 -2.94 -4.97 -16.18 -13.56 -40.80
g -8.03 -6.12 -14.59 -14.63 -19.36 -62.66
G +5.82 +5.42 +5.25 +3.93 +5.18 +25.61
P -2.21 -0.70 -9.34 -10.70 -14.18 -37.06

r=金準備率の変化による物価水準への直接的影響

m=実質貨幣需要の変化による物価水準への直接的影響

g=実質金需要の変化による物価水準への直接的影響

G=世界の貨幣用金ストックの変化率

P=世界の物価水準の変化率

注:数値は全て対数の一次階差(×100)を使用し、年率換算はしていない。rの変化率とmの変化率の合計は、gの変化率に等しい。世界全体で見れば、Pの変化率を決定するのはGとgの変化率である。その他の国々の詳細な情報は、巻末別表にある。
※1931年9月にイギリスが金本位制を離脱して以降では、イギリスの金需要の変動を、金準備率要因と貨幣需要要因に分解することはほとんど無意味である。

*1:フランスが正式に金本位制に復帰したのは1928年6月だが、フランス・フランは1926年12月から金と固定されていた。

*2:世界全体の貨幣用金ストックに占めるフランスの保有割合は、1932年までで、1914年時点の2倍になっていた。このことを根拠として、ヌルクセ(1944)、ホートレー(1948)、そしてカッセル(1936)は、1929~1932年のデフレに寄与した金ストックの「不均衡分布」の原因は、フランスの政策にあると断言したのである。

*3:「商業・金融の記録」(1930年5月3日,p.3089)を参照のこと。

*4:当然、いくつかの国々の行動が世界の物価水準に対して別個に影響している場合、因果関係を明確にするのは困難である。たとえば、イギリス、フランス、そして米国が各々で、世界の物価水準を2%低下させるような政策を採用しており、なおかつ世界の貨幣用金ストックが4%増加していた場合、世界の物価水準は2%低下するだろう。その場合、2%のデフレを招いた「原因」は、3カ国それぞれの政策にあるとも言えるし、3カ国全体としての政策にあるとも言える。

*5:フランス通貨のフランが過小評価されていたという事実は、フランスへの大量の金流入を説明するものではない。ホートレーは、フランスの良好な国際収支と債権者としての立場は、フランス・フランへの需要に影響することを通じて、金需要に作用しただけであると指摘した。フランが過小評価されていたという事実はむしろ、金本位制に復帰するさいに、フランスがイギリスほどのデフレを経験せずに済んだ理由を説明するものである。

*6:ネルソン(1991)を参照のこと。