スコット・サムナー「サムナーの大恐慌論②1929年の株価暴落の原因とは?」

  • 2010年2月11日投稿。

 

〔訳者:長かったので前後半に分割。今回は前半です〕

 

第4章:ウォール街の株価暴落から最初の銀行危機へ

「株式市場の崩壊に、経済活動の深刻な収縮を発生させた構造的要因の兆候としての側面があったことは疑いようがない。しかし同時に、株価暴落が収縮をさらに悪化させたという側面もあったのだろう」(フリードマン&シュワルツ,1963,p.306.)

1929年中頃、米国経済のパフォーマンスはほとんど理想状態だと思われた。産出の力強い成長、物価安定、低失業、連邦政府の財政黒字、貿易黒字、活況に沸く株式市場*1、これら全てが実現していた。ところが、1929年9月に物価と産出がどちらも急落し、その後3年近く下落を続けた。1929~1932年の収縮の原因は、金融引き締めか、あるいは民間支出の自発的な減少により、総需要が減少したことだと考えられている。しかし、総需要の著しい減少が、株価暴落の後で起きた理由は明らかではない。

第4章では9節にわたり、経済政策関連のニュースに対する、米国の株式市場を中心とした金融市場の反応を見ていく。この物語は当然、1929年の有名な株価暴落から始まるのだが、それと大恐慌のつながりには2つのパターンが考えられる。多くの歴史的説明では、株価暴落が恐慌を引き起こしたとされている。しかし、迫り来る恐慌(の予測)が株式市場を崩壊させたという、別の説明をすることもできる。こちらは効率的市場仮説と合致する説明でもある。

1929年の株価暴落と、1987年のよく似た株価暴落を比較することは有意義だろうから、まずはそこから始めよう。1929年、ダウ平均は9月初めにピークを迎え、9月後半から10月初めにかけて急落し、10月28日と29日には23%暴落した。結局、8週間で株価は39.7%下落した。1987年、ダウ平均は8月後半にピークを迎え、9月から10月初めにかけて急落し、10月19日には22.6%*2暴落した。結局、8週間で株価は36.1%下落した。2つの株価暴落の共通点は、保守的な共和党政権が減税を進め、米国経済が成長を続けた後に発生した点である。異なる点を1つ挙げるとすれば、1929年のケースでは「暗黒の木曜日」の後の数週間にわたって、株価がさらに急落し続けため、下落率の合計は48%近かった点である。しかし、より重要な相違点は、暴落が発生した後のマクロ経済の動向と関係がある。

1987年に株式市場が崩壊した後も、力強い経済成長は3年間続き、企業利益も好調であった。どのような「ニュース」が1987年の株価暴落を引き起こしたかは不明であったため、この出来事は投資家の不合理性を示し、効率的市場仮説とは両立しない事例であると広く考えられてきた。通俗的な説明では、1929年の株価暴落を受けて米国史上最悪の恐慌が起こったという前提にもとづいて、1929年の株価暴落を集団パニックの事例として描写することが多い。専門家と呼ばれる人々の多くが楽観的な経済予測をしていたにも関わらず、投資家たちが恐慌の到来を見抜いていたと仮定するならば、1929年の株価暴落を市場予想が高度に洗練されている強力な証拠として考えることも可能である。この仮説の証拠を検討する前に、株式市場と景気循環の関係を詳しく見る必要があるだろう。

シュヴェールト(1990,p.1237)は、1889年から1988年の期間の「株式収益の変動の大部分は、将来の(工業)生産高の成長率で説明できる」ことを示した。ドワイヤー&ロボッティ(2004,p.11)は、「必ずしも不況の前に株価が下落するとは限らないが、不況の発生は常に株価の大幅な下落と関連している」ことを観測した。マックイーン&ロリー(1993,p.705)は、「実体経済が予想以上に好調なことを伝えるニュースは、すでに経済が好調な時期には株価を下落させる一方で、経済が低調な時期には同じニュースが株価を上昇させる」ことを指摘した。次の部分では、大恐慌期の株価が、産出を増加させると期待される政策のニュースに反応して上昇し、その逆もまた然りであったことを示そう。

株式市場の崩壊と大恐慌が、完全に無関係であるとは考えられない。しかし、政策関連のニュースが1929年の株価暴落を引き起こした可能性はあるだろうか?工業生産高が前年の夏にピークを迎えていたことを考えると、大暴落はただ単に、1929年秋に経済が減速したことへの反応に過ぎなかったのかもしれない。しかし、わずか数週間にわたって、生産高が比較的緩やかな減少を見せただけで、株価が48%も下落することはありえるだろうか?一方で、悪い政策が原因であったとすると、その政策とは一体何だろうか?

大恐慌が株式市場を崩壊させた原因であったとするなら、株価暴落が大規模であったことを説明する際には、投資家たちが将来の経済危機を少なくとも部分的に予測することができるという、フォワードルッキングな仕組みが存在することを示す必要がある。1929年10月に、株式市場はそのような悲観的な情報を受け取ったのだろうか?効率的市場仮説と完全に一致する答えを見つけることは、どうやら難しいようである。しかし、1929年の株価暴落があれほど大規模であった理由が謎のままであるとしても、いくつかのヒントを拾い集めて、真相に近づくことは可能なはずである。

第4章では、以下に示す2つの重要な問題に注目する。

  1. 世界の金準備率が上昇したことによる総需要の減少は、1929年後半から始まったのか?
  2. もしそうなら、そのことは1929年に株式市場が崩壊した原因でもあるのだろうか?

金市場と恐慌の発生のつながりを検討する前に、まずは1929年の株価暴落に関する従来の研究を振り返るところから始めよう。

第4章 1節:1929年の株価暴落に対する従来の説明

マネタリストの見解によれば、恐慌の原因は1928年半ばにFRBが金融引き締めを開始したことにあり、その政策転換は、世界の金準備率ではなく、米国の金準備率を見れば明白であるとしている*3。この章の始めに、1929年10月の株式暴落の背後には「構造的要因」があったとするフリードマンとシュワルツの言葉を引用したが、実のところ、それが一体何であるかは未だに明らかにされていない。彼らはそれを説明する代わりに、基本的には貨幣流通速度を低下させる悪化要因として、株価暴落を扱うことにしたのである。マネタリストが主張する「長く変化しやすいラグ」は、FRBが金融を引き締めてから1年以上後に大恐慌が始まった理由を説明できるかもしれないが、その間に米国の株式市場が好調であったことには説明がつかない。マネタリストは市場の効率性を信用する傾向があるものの、政策問題を語る時の彼らは、金融政策の変化に対する市場の反応を見落としがちであるし、時には投資家による非常に不合理な行動の存在をほのめかすことさえある。それは彼らに限ったことではない。

オーストリア学派の見解によると、1920年代の金融緩和が持続不可能な投資ブームを生んだのだという。株式市場の崩壊とそれに続く恐慌は、どちらも誤った政策の帰結というわけである*4オーストリア学派では、市場の非効率性を前提とする見方がより支配的である。なぜなら、投資家たちが合理的であり、FRBの政策が崩壊をもたらすことは必然であると理解していたなら、1929年半ばの株価があれほど高値を付けたはずがないからである。また、マネタリストの見方によって、金融引き締めの後に景気が減速しがちであるという事実を説明することはできるが、オーストリア学派の見方にもとづいて、戦後の米国の金融政策を説明することは困難である。戦後の数十年間を1920年代と比較すると、インフレを伴う好景気はずっと多かったし、同程度の規模の株式市場ブームもあった。しかし、それに続けて大規模な恐慌が発生することはなかった。そこで、現代のオーストリア学派は、当初のショックと「二次的な恐慌」と呼ばれるものを区別するようになっている。

ケインズ主義者もマネタリストと同様に、1929年の株価暴落は外生的な出来事であると同時に、その後の収縮の原因にもなったという見方をしている。実際のところ、大恐慌の始まりをIS-LMモデルで説明することは困難であるため、マネタリストの説明と比べて、ケインズ主義者の説明における株価暴落の重要性は非常に大きい。そして、ケインズ主義者は1928~29年の壮大な強気市場を「バブル」と呼び、それが破裂したことで総需要が押し下げられたという見方をするようになった。例えば、ローマー(1990)は、大恐慌において総需要を押し下げた最大の要因は、1929年の株価暴落によって消費者マインドが悪化したことであると主張している*5。しかし、それとよく似た1987年の株価暴落が、経済成長に全く影響しなかったことから分かるように、株価が実質産出に与えるインパクトは非常に小さいと思われる*6フリードマンとシュワルツの共著「米国金融史」が本来より25年遅く書かれていたなら、株価暴落を恐慌の原因として記述することはなかったはずである。

ローマーは1929年と1987年を比較して、前者の株価暴落の後では、株式市場が非常に不安定化していたことを指摘し、それが消費者マインドに多大な影響を与えたと主張しているが、この仮説には2つの大きな弱点がある。第一に、1930年の株式市場が1988年よりも多少不安定であったという事実は、経済成長率の違いのほんの一部分を説明できるだけであり、1930年の米国が深刻な不況に見舞われた一方で、1988年の米国が好況に沸いた理由を説明することは困難である。さらに問題なのは、株式市場が極めて不安定になったのは1930年4月中旬からであり、その時点では既に、経済は深刻な不況に陥っていたということである。実のところ、1929年の株価暴落の後の6ヶ月間と、1987年の株価暴落の後の6ヶ月間を比較すると、前者の方がダウ平均は良好に推移していたのである。1987年の株価暴落が経済に全く影響しなかったことは、例外的な出来事である可能性も当然ある。しかし、最近のいくつかの研究で、時系列データと横断面データの両方を調査したところ、株価の変化に資産効果が存在するという証拠は、ほとんど皆無であることが示されている*7

公平を期すために言うと、大部分のケインズ主義者は、株価暴落は大恐慌の「原因」というよりは、むしろ恐慌の発生に寄与した多くの不幸な出来事の1つであると考えている*8

では1920年代末の株価が高過ぎたという証拠は何だろうか?いくつかの金融モデルでは、20世紀の多くの期間で、株式が過小評価されていたことが示されている*9。投資業界が1930年代まで経済成長が続くと予想していたとして、その予想は本当に不合理と言えるだろうか?おそらく、この問題に関して経済学者の見解は別れるだろう*10。しかし、フィールド(2003)が指摘したように、1930年代は「20世紀で最も技術が進歩した10年間」であり、投資家たちを夢中にさせる新技術が数多く存在していた。真相解明を諦めて「バブル」説を受け入れる前に、思慮深い投資家たちが1929年9月には非常に楽観的であり、1929年11月には非常に悲観的であったことを説明できる別の方法が無いかどうか検討してみよう。

*1:1920年代後半と1990年代後半の米国経済には多くの共通点があるから、この2つを比較しようとするのは当然である。しかしその比較では、おそらく1920年代が優位に立つだろう。2001年に不況が訪れなかったとしても、1990年代に、IT分野と電気通信分野への投資が過剰であったことは、後から考えれば明白である。たしかに1920年代にも過剰投資が行われた可能性はある。しかし、1930年代初めの米国経済が順調に成長していた場合に、自動車のような成長産業への投資が過剰であったと言えるかは疑わしい。

*2: 1日の下落率としては、米国の株式市場の歴史において断トツの1位である。

*3:フリードマンとシュワルツは、銀行危機の発生以降に不況を悪化させた要因に注目しているが、シュワルツ(1981)は当初の景気後退の原因は、1928年に採用された金融引き締め政策であると断じている。

*4:ロスバード(1963)、パーリィ(1972)を参照のこと。

*5:テミン(1976)は、大恐慌の1年目は民間消費の自発的な減少で説明できると主張したが、民間消費が減少した理由は不明である。

*6:1987年の米国が恐慌を免れたのは、FRBが積極的な金融緩和をしたからであり、さもなくば株価暴落の後には恐慌が待っていただろう、という反論がありうる。この反論を認めてもいいが(1929年のケースでも、FRBが利下げを実施したことを踏まえると)、それは景気循環の決定における金融政策の重要性を議論しているだけであって、もはや株価が経済に影響するかの議論ではない。

*7:ケイス&キグリー&シラー(2005,p.26)は、「株式市場の資産効果は、控えめに言っても根拠薄弱」であることを発見した。ドワイヤー&ロボッティ(2004)でも、「資産効果」の証拠はほとんど見当たらなかった。さらに、株価と消費の間の相関を見るだけでは、株価が消費に与える影響を過大評価してしまうことにも注意すべきである。なぜなら、将来の経済状況への期待という第3の要因が、株価と消費の両方に作用するからである。

*8:テミン(1989,p44)は、1987年の例も引き合いに出しつつ、株価暴落は大恐慌を引き起こした大きな要因ではないとしている。

*9:20世紀の米国では、株式投資からの長期的なリターンは、無リスクの財務省証券よりもずっと高かった。株式が過小評価されていたという根拠は、この差が株式投資のリスクプレミアムだけでは説明しきれないことにある。

*10:大恐慌期、アービング・フィッシャーは1929年10月の株式市場は過小評価されていたと言い、世間から嘲笑された。また、デロング&シュライファー(1991)、ラパポート&ホワイト(1993)は、それがバブルであったことを示す間接的な証拠を発見した。しかし、マグラタン&プレスコット(2004)は、企業の無形資産の価値を考慮すれば、1929年の株式は過小評価されており、「アービング・フィッシャーは正しかった」ことを示唆している。